壁龕で昼寝

手製本や雑貨などの手仕事の様子と、読書の記録をちびちび書いていきます。

近頃は入力三昧

夜のピクニック (新潮文庫)夜のピクニック (新潮文庫)
(2006/09)
恩田 陸

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 登場人物のひとりひとりに、かつて知っていた少年少女たちの面影がかぶさっていく。言葉はいつも想いに足りない、そんな風だったあの頃。
 このところ芋掘り式、もとい芋蔓式に手繰り寄せてばかりいるものたちは、ひとつことが終わってゆく、四年間続いた作業があと少しできれいさっぱり終わってしまうという状況の中で、また、この明るい季節へ向かっていくしんとした寒さの中で、ずっと忘れていた感覚がよみがえっているってことなんだろう。新しい季節への予感。まっさらな日々が始まることへの不安と期待。ああ、ほんとうにここ十年あまり、忘れていた。
 ブログという装置のおもしろさ。物書きになることはとっくにあきらめていたけれど、こんなつぶやきを、見知らぬ誰かが目にとめてくれるかもしれない、ささやかな喜び。たとえば、市川拓司の自分探しの旅日記の赤面ものの気恥ずかしさが、「今、会いにゆきます」へ美しく結晶した様子を目の当たりにして、そんな文学の誕生もあっていいんだなと思った。
 まだNちゃんが赤ちゃん公園で裸足で走りまわっていた頃、夜中に眠れないままネットをうろうろとして、そのころはしりだったブログ(まだそんな呼び名はなかったように思う)におそるおそる参加して、自分が書いたものに見知らぬ誰かがうわーっと反応する感じに(それはとっても好意的であったが)、うっとひいてしまう思いがあって、ずいぶん遠ざかっていたものだけれど、同人誌をつくるとか、何かの文学賞に応募するとかでない発表のかたち、それも作品とすら呼べないひとりごとの垂れ流しを目にとめて、共感してくれる人が一人でもいるなら、その一人にあてて書いていきたいな、としみじみ思わせてくれる、良い作品でありました。

 
 けれど、それでもやはり、彼は心のどこかであの少女たちを愛していた。誰かを個人として、恋愛対象として愛していたのではなく、彼女たちの存在そのものに、彼女たちが自分に感じさせてくれる空気に、強く惹かれ、焦がれていたのだ。



 ナルニアの挿話。読み終わって「しまった」と感じたという。出会うべき時機に出会いたかったと。確かに私も小学生の頃、勧められて読み始めたものの読み続けられなくて、長く封印してきた作品で、娘が小学生になってはじめてきちんと読みとおしたのだった。それも、眠る前にちびちびと音読したため、ひとりで読み進むよりも物語世界はふくらみを増し、娘と一緒に冒険している気分だった。内容は例によって忘れてしまったけれど、ラストのものすごい激流に押し流されてなすすべなしといったものすごさは、子供の頃の自分には多分意味不明の世界だったのではないかと感じた。
 もちろん、本や音楽や絵といったものに、出会うタイミングというのは、あるのだろうと思っている。同じ本でもすっとしみこんでくるときもあれば、なぜか拒絶したくなるときもあり、それは読むときの精神状態、受け止める許容量の問題もあるのだろう。また感銘をうけたものでも、再読するとまた別の箇所で別の感慨をもったりすることもある。

「空の色ににている」 競歩大会の挿話
「のだめカンタービレ」 千秋がラフマニノフのピアノコンチェルト2番を演奏したところ
サザンオールスターズの音楽 ありながら今を懐かしむ感じ

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